Take it EZ! セカンドダンジョン

(やらねばならないことがたくさんあるのだけど放置してるから)暇な私です。
今日は気圧ダダ下がりだしなんかだるいし疲れてるって理由で11時まで寝てた笑
最近は本当に、バイトとその他もろもろの用事意外は家事とPCとたまに勉強くらいしかしてないね。ダメなやつです。

最近、ニュースで相模原の障害者施設での殺傷事件について見る機会があった。それは、遺族へのインタビュー、といった形のものだった。
去年の7月に起こった事件で、19人も亡くなった事件なのに、報道はあまりにもあっけなかったと思う。8月末には、ほとんどそのニュースは見なくなっていた気がする。
その理由として、被害者が障害者で、犯人も精神障害を持っていた可能性が高いからだ、ということが言われている。障害者に絡む報道は気を使わなければならず、あまりに深入りすることがタブーだからだろうか、と思う。報道によって世論が高まると、何か都合の悪いことでもあるのか、とも思う。

私は、その一端は、人の生命の価値、というものが崩壊する危険性があるからではないかと思う。
ネットで、障害者、死ね、とか入れると、たくさんの暴言が出てくる。身体に対してはあまりないけれど、知的・精神に対しては多い。もちろん、その中には例えば家族が障害を持っていて、それが苦しくてどうしようもなくて、書いてしまう人々もいるようだから、ただの好き嫌いや偏見だけが全てとは言いがたいと思う。
ただ、それらを差し引いても、「生きてる意味あるの?」論の多いことに、愕然とせざるを得ない。

「生きてる意味あるの?」論の根拠(になってないけど)の中で多いものは、一言でまとめれば、「生産性がないから」「社会にとってお荷物、迷惑、ゴミ」ということだ。
直接迷惑をかけられた、迷惑な場面を見た・聞いた、なのに「障害者だから」と許される風潮が嫌いだ。何もできないくせに、自分らは働いて毎日をなんとか生きているのになんだこの差は。そんなんなら障害者は差別されて当然だ。
みたいな論調。ほう。

人々に迷惑をかけてまで生きるな。
生産性がないのに堂々と生きるな。
それができないなら差別されて当然。ほう。

なるほどねぇと思う。こういった考えが、全く間違ってるとは思わないし、確かにそう思ってしまうのも仕方がないのかなぁと思う。
事実、私もそう思うことはある。差別されて当然とは思わないけれど、なんでこの人たちは許されることが、許されなくて、一生懸命生産性を否定されない人間になって迷惑も極力かけないようにがんばって社会に順応しようと努力している私が、苦しまねばならないのか、と思うときはある。

でも、それって結局、私が生まれてからいつの時点でか獲得した、人の命や生きることの価値は、極力迷惑かけずに生きて何かを生産して「社会」に還元することだ、という考えかたによるものだと思う。そして、この考え方は私だけではなく、多くの人が持っているのではないかと思う。

そうなると、人の命の価値は平等でだれにでも生きる権利はある~みたいなきれいごとは全て崩壊だ。そもそもだれもそんなこと思っちゃいない張りぼてスローガンで、何とか保ってきた世の中の秩序が乱れ始める。
乱れると、後ろに隠れた人の価値は決して平等なものではないという考えが表面に出る。その考えが蔓延していることが分かる。それが都合が悪い。そういうことなのか。

私は、人の価値が平等ではないという考えは、決して都合のわるいことではないと思う。
平等ではないと考えている人々(私も含め)がなぜそう考えるにいたったかを考察して、おかしな至り方をしているのであれば、そう思わせるような部分を改善する。
平等ではないという結論にしかならないのなら、平等ではないながらもそのなかでの個人個人の幸福を最大にするようなシステムが必要になる。
ただ、皆でそのようなことを考えようとした瞬間、混乱や更なる差別や傷害が起こるだろうから、しないんだろうな、と想像する。

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