Take it EZ! セカンドダンジョン

やばー久しぶりです。3週間ぶり?こんなにながく空いたのは初めてですね。

ここ数週間、なんか生きているのか死んでいるのかよくわからないようなぼーっとした精神状態で過ごしております。
塾へ行き、新たに始めようと思っているもう一つのバイトの面接に数件行き(決まりました)、塾の休み期間は派遣に2日行き、院試のために英語を勉強し、例の人と遠出し、友人と遊びに行き友人の自宅へ行き、読めなかった本を読み...その時々は楽しかったり有意義に感じたり、もちろん瞬間的には一生懸命なのだけど、生活全体をとおしてみるとなんだかぼけっともやっとグレーな感じです。まぁいいや。


最近、差別とか偏見に関して考えることが多くなった。
障害者施設でたくさんの方が殺された事件があったこと、その他自分の身の周りの人々に起きているできごと、テレビのふざけた番組、等々から、嫌でも考えさせられる機会があったから。

差別や偏見とは、ステレオタイプがその根底にあるものだと思われる。
これは心理学の対人認知に関する授業で習ったものだけど、ステレオタイプとは、「ある社会的カテゴリーに属する人々が共通して持っていると信じられている特徴」というもので、偏見とは、ネガティブなステレオタイプということらしい。差別は、ステレオタイプや偏見に基づいた否定的な判断が行動となって現れた場合のことを言うとのことだ。

じゃなんでそもそもステレオタイプなんてものがあるのかというと、人は限られた処理能力しか持っていないために認知的負荷を節約しようとする働きがあり、その節約のためにステレオタイプが有効だからあるという説がある。本来は、あるカテゴリに含まれている人々一人一人に差異があるとしてもそのことを詳細に検討しているヒマはないので、ステレオタイプに従って単純化してしまったほうがいいというわけだ。
ステレオタイプは人が成長する間に、その社会・文化一般に浸透したものが獲得されるとされている。性別に関するステレオタイプ的な発言や様式には、私達は小さいころからずっと触れているために、気がついたときには既に獲得されているわけだし、人種間のステレオタイプが獲得されるような社会もある。

そういうわけで、ステレオタイプは同じ社会に生きていれば獲得されて当然とも言えるものかもしれないけれど、それが偏見を持つ・差別をする、ということに繋がるわけではない。次の段階として、個人的な信念が問題になる。これは、個人個人がステレオタイプに基づいた偏見や差別意識を否定しようとする信念のことを表す。
もちろん、この「個人的信念」を持った人もステレオタイプ自体は持っているわけで、それを否定しようと思う動きがあって初めてステレオタイプ化して人を判断しないようになる。

なるほどね、そうですか、と。わかったようでわからない。だから私の試験成績は悪いわけです。というのはおいといて。

精神障害者に対する偏見についてはどのようなことが言えるのか。
まず、偏見とはネガティブなステレオタイプだということで、これは確実に存在しているのは間違いない。例えば、なんだ。2chとか、よくわかんない質問(ほぼ愚痴)掲示板のような胸糞わるいクソみたいなクズが寄ってたかって書いている駄文の集合体(うそです)を見ると、奇声を発するとか目つきがおかしいとかリスカしてるとか面倒くさいヤツとか近づかないほうがいいとか、そんなことが書いてあったりする。もっと悪いことには犯罪があると精神障害があったのではみたいな短絡的すぎてあらま、と思うようなことを書いていたりする、最近は何かやらかした有名人とかに速攻で病名を付けたがる人々もいる、キモし。
「精神障害を持っている→めんどくさそう、てかこの人と関わる必要なさそうだな」ってなると、その人をステレオタイプに当てはめて見るほうがよっぽと楽になる、というわけで偏見が生まれる。ただし、ここで、偏見を持つべきではない、的な信念が働くようになると、精神障害に属する人が一定数いてそれがどのようなステレオタイプを持たれているか分かっていても、そのことに基いて精神障害者を判断しようとは思わなくなるわけだ。

だったら、偏見をなくす方法は2つあると思われて、1つ目が、ステレオタイプそのものを変容させること。これは過去に他国(どこか忘れました)で結構大きな実験が成されたことがあって、変容させるプロセスを踏めば(その事例では)不可能ではないことが分かったのだけど、この社会全体の精神障害者に対するステレオタイプの傾向では変容するのは難しいしとても時間がかかると思われる。変容には、ステレオタイプを持たれる側と持つ側が関わりあい、お互いに向き合う対象として接することが重要らしい。だけど、そもそも障害者と関わろうというスタンスがないかぎり、これは無理であろうと思われる。
もうひとつは個人的な、ステレオタイプに基づかずに判断しようという信念に期待すること。しかし、「精神障害者に対して偏見を持つのはよくないですよ」というだけで、人々が偏見を持たない(ステレオタイプ的に判断しない)ようになるわけはないと思う。もしも個人的信念に期待するのであれば、どうすれば個人的信念を持つような動機付けを行えるのかを考えなければならず、私にはちっとも思いつきませんね。

私は精神障害がなんぞやみたいなものが、自分がいざそうなるまでよく分からなかった。中学生くらいのことには、「うつ病」という名前は取り沙汰されていたのでもちろん知ってはいたけれど、それに対して知ろうとも思わなかったし感想もなかった。はあそういう病気があるのね、こわいね、くらいなもので。
はっきり精神障害に向き合わねばならなくなったのは、入院したとき。不思議なことに、私は自分のものに向き合うわけでなく、入院中に一緒に生活した人々とより良く関わりたくて毎日話をしているうちに、いつのまにか向き合うようになり、少しずつ、それがどういうものか知った。
統合失調症も、躁うつ病も、発達障害も、強迫性障害も摂食障害も多重人格もBPDもアルコール依存症も薬物依存症も、本人たちと関わって初めて知った。この病気だからこの人は、と考えることは、そもそもできなかった。ある意味で、精神障害のステレオタイプが完成する前に、私はどっぷり、精神障害の中に居たとも言えるかもしれない。だから、一般的なステレオタイプそのものが、こういうものである、というものを知識で知っていても、いまいちピンとこない。しかし、一般的には、どこかの時点で獲得されたステレオタイプに基いて初めて障害者を見る、というほうが多いだろう。偏見を持たないような信念を持たせるようななにかがない現状で、精神障害者に偏見を持つなというほうが、難しい気がする。

ただし、私は自分の周りだけを見渡せば、偏見は持たれていないし差別もされていないと言える。なぜなら、周りは私を知っているし一個人として認識しているからだ。でも、少し視野を広げれば、偏見はそこら中にある。病院に行くので。どっか悪いの?いえ持病がありまして精神科へ。これをはっきり言えない時点で、偏見を危惧している自分がいるわけだ。
私は多分、発達や今までの未遂に対して偏見を持つ人間と仲良くなったり関わることはないと思われる。これは私が意識してそうしようというわけでなく、なんとなくだけど私はそういう人を選ばないだろうという自信があるから。
でも、個人的な問題ですむ話ではない。少しだけ自分の外側、例えば通院先の友達を見てみれば。

家族に、偏見を根強く持つ人がいて、障害者本人が支援につながれないこと。支援機関の職員に、偏見の目を持つ人がいて、せっかくの機会をだめにしてしまうこと。自分の中にまだ偏見があるからこそ起こる、障害者同士のトラブル。偏見を回避しようとするあまりに、ひっそりと生きねばならない人々。集団で孤独に追い込まれ、集団が個人を孤独に追い込み、孤独を深めて。

偏見が、死をもたらす可能性を考えるべきだ。それは、当事者とその周辺の人々、主たる援助者にとって切実なことであると思う。

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