Take it EZ! セカンドダンジョン

今日から外出!毎日1限分ずつでも学校へ行きますよこれはもう。単位危なそうなヤツだけでも出ますよハイ。
正直、傷の具合はそんなに良くない。毎日2回の処置はしてもらわないとできないし(自分で届かない場所だしね)、第一、痛い。今日外に出るのは、マジでやむを得ず、って感じであって自分でも今日は控えた方がいいんじゃないかと思うくらいなんだけどね。歩くのしんどいっすよ。

ここ1週間くらい、私にしては珍しく笑、後悔というものをしている。まぁ、後悔するタイミングはだいたい処置のときか、痛みが強くなったときなのだけど、あぁあのとき鍵だけでも開けときゃよかったなあとか、量足りなかったかぁとか、いやいや、そもそも未遂とかすべきじゃなかったなぁとか、全く一貫性のない後悔なんだけどね。つまり今の痛みを経験しなくて済むにはどうすればよかったか、っていう後悔(もちろん完遂できれば、っていう答も含まれてるw)。懲りてねぇぞこいつ、懲りてねぇ。

昨日は例の人が来てくれたので、今日から少しだけでも学校に行くことや、でもかなりの無理が伴うことを伝えた。伝えたら、少し怒っていた。なんでそういうことを一言も言わずに前の日になって決定事項として伝えるの、と。私はむしろ例の人が言っている意味がわからず、先週から学校に行くことは決めていたんですが医師の許可とか自分の体調が定まってから伝えればいいやと思っていたんですがそれが何か?と問う。彼は、私が他人の意見に従いにくいwことや、自分で決めたことは意地でもやろうとすることは知っているし、だから自分に相談して自分が止めたところで意味がないのは知っている、と言っていた。だけど、やり方を決めることはできるでしょう、と。あなたの結論自体は変わらなくても、「方法」...例えば学校へ行く方法として、電車を避けるために車を出すことだって、前から言っていればできたことかもしれない、とか、単位のことも1人で思いつめないで落ち着けば別の方法だってあると思えたのではないか、とか...そういった、手段をより円滑にする方法を考えられた、と言っていた。そして、その方法を共に考えさせることが、あなたを心配する者の気持ちを和らげることになるのだ、って。

へぇ、と思った。嬉しかったとか、そういうのじゃなくてまじめに、あぁそういう考え方もあるんだなぁと思った。私は、学校へ行くのは結局自分なのだし、もともとは1人で行くつもりだったし(オカンがついてきてくれることになったけど)、その決定で自分の身体が少し悪くなってしまったって自己責任じゃーん、だから自分のやりたいようにやる、と考えていた。今までそうやってきたわけでさ。だから、自分の行動を人に相談するっていう発想があまりなかった。カウンセリングだって診察だって、だいたいやらかした後の事後報告に終始する場面が多いしね、考えてみれば。
人に相談したほうが、視野が広がることもあるし、あわよくば(この言い方は適切ではないけれどw)手をお借りできることになるかもしれない、そのメリットがあることは、理解できるし分かってた。仕事の場面とかでは報告も相談もそれなりにするもんね。だけど、親しい人に相談や経過を伝えることが、彼らの心配を和らげるということには驚いた。そんなもんなのか、と。驚いたけど、それって親しい人や心配してくれる人がいなきゃ成立しないことだから、そういった人々が周りにいることはやはり、「有り難い」ことなのだなぁと思う。

今の状況、今っていうか、2月以降の私は人に心配と余計な負担をかけているだけで、誰のためにもなんのためにもなっていない。存在そのものが、という言葉は聞き飽きた。私は自分の大切な人々のためになりたいし、なるための工夫もたくさんしなければならないと思う。だけど、そのためには自分の精神が安定せねばならず、なのに自分の精神が安定するためには大切な人々の力が必要なわけで。難しい。

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