Take it EZ! セカンドダンジョン

昨日は朝4時起きで日帰りスキーに行ってきた。大学の友達と2人で。4年ぶりのスキーだったけど何とか滑れて楽しかったし、行きや帰りのバスの中でその子ろたっぷり喋れたのも楽しかった。19歳、よく考えて楽しんで悩んで、羨ましいと思ったけれど、私のある面での精神年齢はそこらで止まっているわけだから、私も彼女らの中に積極的に入って学ぼうと思えた。

その前の日は、例の人のこれから、に対する決定事項を見に行った(今までもそうだけど、とてもオブラートに包んだ感じの書き方で申し訳ない、でもこれに関してはもうこれ以上は書けない。本気で個人が特定されるから)。
新たに世界で生きることができることになった。
夕方からは塾だったので、決定した後、1時間くらい話した。121日の困難を一つ乗り越えたけれど、まだ終わっていないことはあり、それに向き合っていくことがこれから必要だということを確認した。だけどそれ以上に、安心しすぎてほっとしすぎて、放心状態みたいにもなった。私は今までの緊張がやっとぬけた感じになり、強烈な眠気に襲われてその後の塾が本当に大変だった。

しかも塾終わったあとは、送別会があって深夜まで飲み。帰ったのが12時すぎで寝たのは2時、そして4時おきでスキーに行くという強行スケジュールの2日間だった...そしてそれ以上に、例の人の「非日常」的な場や状況から、普通にバイト、送別会、そしてスキー、と健全すぎてまさに大学生的な場に切り替えることが、やはり変な感じがした。例の人との会話の中には、当たり前だけどまだまだ非日常のことが含まれる。本当にことが終わるまでは、まだ時間がかかるからね。
でも、私はその「切り替え」が、変だとは感じるけれど辛いとは感じなくなった。確かに学校やバイトの方ではあちらの話は出せない、だけど、学んだことや精神性は出していいんだな、と気がついた。言葉の使い方や態度、そういうものまで切り替える必要はどこにもない、と。事実や考え方を、その場その場でどこまで出すかというには配慮が必要だけど、その根底に流れる自分の筋の通っているはずの「特徴」まで変える必要はないんだ。
そして例の人には、私が基本的にいる、どちらかと言うと一般的な日常を出せる。障害的な意味で少しおかしな考え方も出せる。根底にあるはずの「特徴」で関わっているわけだから、当然なんだけどさ。

私は自分では気が付かなかったけれど、音楽や本の趣味は、私の「特徴」を示しているのかもしれない。
例えばヒップホップに関しても、時代が80sから90s前半のものだ好きだったり、最近では70sあたりのファンクばかり買っていたり、それはもしかしたら私の年代で私のような風貌(クソ普通ってこと)にしてはめずらしいのかもしれない。本だと、ドラッグ関係のノンフィクションや物語とか、精神が操作されて「普通ではない」人間がでてくるものを好んで読むことが数年前から増えた、そっちに偏ってきた。私は、別に意識していたわけではなく、音楽だったら例えば、好きなアーティストがまずいて、その人が曲の中で名前を上げている曲を探っていって聴いてみた結果、そっちを好きになっていたりとか、それは本の中で作家が上げている本を探るのも同じこと。
なので、楽しいからやっていただけであり、それが自分の特徴を示すなんて考えもしなかった。

だけど、もしかしたら、その「目に見える部分」って、自分の根底に流れるものにかなり近くて影響しているのかもしれないと思った。そうであれば、自分の特徴はそこまで考えなくても、意外とすでに全面に出ていて、切り替える必要もないことなのかなとも思った。もちろん、明らかに歪んだ考えや行動については場を選ぶ必要はあるけれど、それは辛い辛くないの前に生きる上で必要なもんだから、仕方ないと割りきって。

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