Take it EZ! セカンドダンジョン

うーん、ラミクタールが話題だね。私も1日100㎎飲んでるし、デパケンとの併用だから服薬の量とかは守っていかなきゃなんない。まぁ、ODするとき、デパケンとラミクタール、前だったらリーマスは避けるようにしてたから(←そこは意識しっかりw)いいんだけどね、そうじゃなくて日常の服薬をさぼったり勝手に増やしたりしないことだ。

昨日カウンセリングで、自己肯定感の話をした。この間もここに書いたように、私はひたすら自分を認められない人間だ。で、まぁ、私はYの各種暴力によるPTSDということなんだけど、それを治療するにあたっては「自分を認められないこと」は大きな弊害になるとのことだった。そりゃ感覚的にそうなのだろうな、ということくらいはわかる。Yから暴力を受ける前からそもそも自己肯定感がないのであれば、いくらPTSDの治療をしたって上滑りだろう、だって、自己肯定感を「取り戻す」ことができないから。そもそもないものを取り戻すっていうことになっちゃうからね。

私は、公平とか平等とかを重んじているっぽい。別に意識してそうしているわけじゃないんだけど、なんか、自分だけはじめから恵まれた環境にいることとか、そうでなく苦しんでいる人がいるとかが、耐えられない。
その中でも、生まれた環境とか育った環境とか、自分ではどうしようもないことで命の期限とか、訪れるべきチャンスの量が変わってしまうことがとても嫌だ。例えば、中学のころは、戦場とかの「かわいそうな」子供たちを撮ったドキュメンタリーみたいのがとても苦手だった。自分がこんな環境で生きてて本当にごめんなさい、と思ったし、私なんかが食べ物を食べているのが申し訳なく感じてご飯がおいしくなくなった。
今考えると、その「かわいそう」はある程度作られたものかもしれなかった。確かにこちらから見れば悲惨な状況なのかもしれないけれど、彼らとしてはかなり懸命に生きているはずで、同情などされたくなかっただろう。

だから、高校の時は、テレビで見たそんな情報に動かされて、将来は海外の「恵まれてない」地域で働くべきだと思ってたし、そのためにできることに近い大学を選んだ。詳しく言うと、医学部受けて落ちたんで、国際看護学部に行った。すぐやめちゃったけどね。
その後、自分のことで精一杯の日を経て精神科の人々やちょっとまぁ、普通とは言いがたい世界にいる人々を垣間見ることになって、それで少し気持ちに変化が出た。確かに世界でもいろいろ起こっている、だけど、私は目の前にいて関わっている人たちの「不公平」なチャンスや生きる状況を少しでもなんとかしたい、みたく。とてもとても傲慢なことだけどね。
そしてYは、その一番の例だった。あの人の場合は自業自得で片付けてもいいくらいなのだけど、それでも見ていられない部分があった。いいものを持っているのに。上手く使えてない、使う方法も知らないし使うことがどれだけいい影響をもたらすかを知らないこととか、使うための周りのサポートがないこととか、歯がゆかった。
いいヤツが死ぬのも嫌だった。
幸せの形は人それぞれだと思うから、その幸せを平等に配分するなんて馬鹿げているけれど、個々が自分なりの幸せをつかめるチャンスは平等に訪れるべきだと思った。つかめるかどうかは個人の問題だけどね。

そのために、自分は何ができるのだろう、と考えることが私にはできていない。
私はそのかわりに、自分が申し訳なく感じ生きにくく感じ、自分がいなければいいんだ、じゃなきゃ自分がそれらの不公平の悪い部分をかぶりたい、そんな自己破壊的でしかも意味のないことばかりを考えていた。
まったく前に進む気がない、変な考え方だったと思う。そりゃ、最初に思った「平等」に関してのこだわりも、馬鹿げているかもしれない、でもそこは、小さいことからでも実現できれば素敵だと思う。なのに、その方法論やそれに関する自分の気持ちみたいなのが、とても歪んでいる。自己肯定感のなさに、起因している。
自分と引き換えに人をどうにかしようとするなんて、それこそ傲慢きわまりないことなのかなと思う。
だけど、無力な私にはそのやり方しかわからない。だったら、そのやり方を考えるために、それをする知恵をつけるために、学ぶというのもありかもしれない。

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